イギリス在住18年、シングルマザー歴8年で、軽度の発達障害のある女の子が一人います。日本とはちょっと違ったイギリスの離婚プロセスを経験しながらも、ひょうひょうと毎日を暮らしています。
元夫との間に修復しがたい溝ができ、家庭内別居をへてようやく別居。その後の生活基盤を、イギリスの福祉のサポートを受けながら、数か月かけてようやく整え直すことができた私ですが、娘の発達障害という、新たな難題に直面します。シングルマザー兼障害児育児の問題点と、それに対する様々な方面からのサポートについて、お話ししたいと思います。
私は高齢出産でしたが、妊娠中はいたって順調だったように思います。お腹の赤ちゃんもすこぶる元気でしたが、出産時にはすんなり出てくる気配は一向になく、助産婦さんが「この子はまだ出ない、って決めているらしいわ。頑固な子になるわよ~」と言っていたのを思い出します。今思えば、娘の心のコアはなかなか変わらない所など、この時から既にその兆候があったのかもしれません。
寝返りやお座り、ハイハイといった時期に来た時に、それぞれの発達が遅いな~と何となく感じてはいました。現地のママ&赤ちゃんの会などに顔を出してみても、周りの子との発達の違いを比べて落ち込んだりして、今あの頃を思い出してみても胸が痛くなるほど、悩んでいました。結局、ハイハイは11か月頃、歩き始めたのは1歳4か月頃になりました。発語は2歳を過ぎてからでした。
やがて私は職場復帰をしたため、子供を保育園に預ける事になります。学区内で評判の良い保育園に入園し、一安心したのも束の間、半年ほどして園長先生に呼び出され、娘の様子が他の園児たちとは違う、おかしい、と延々苦情を言われます。また、その頃保育士達の娘に対する差別的な態度や、他の園児からの嫌がらせも目撃してしまった私は、即日でその保育園を退園し、受け入れを許可してくれたモンテッソーリ保育園に娘を通わせます。
個性的な娘を温かく見守り、また私に様々なアドバイスをくれたモンテッソーリ保育園には、今でも本当に感謝しています。その頃、元夫とは既に家庭内別居状態でしたので、私が仕事を休みながら保育園の手配に追われる事になりました。
娘は4歳になり、幼稚園へ入園しました。その頃元夫のDVが激化し、警察を呼ぶ騒動があったことがきっかけで、別居となります。シングルマザー状態となった私は、まず時短勤務を選択しました。イギリスでは幼稚園・小学校の送迎は保護者が行う必要があるからです(それまでは父母交代でどうにか対応していました)。娘の幼稚園では、「全てあなた独りで抱えてはいけない」とアドバイスを受け、評判の良いチャイルドマインダーをすぐに紹介してもらいました。娘は大人数での集団行動が苦手だったので、少人数の子供とチャイルドマインダー宅で過ごすことは療育にもなるのではないかと思い、週2回お願いすることにしました。今思えば、その週2回、独りになれた時間は本当に有意義だったと思います。
*チャイルドマインダー:子供の下校時間に学校に迎えに行き、そのまま預かってくれるサービス。食事の提供もしてもらえる。
シングルマザーになった後に分かった事ですが(私の勉強不足でした)、イギリスでは、私のパートタイムのお給料とひとり親関連の手当を合わせれば、どうにか生活していけるくらいのサポートを受けることができます。それに比べて、以前はフルタイムで勤務しながら、子供の発達や保育園問題で四苦八苦し、疲れて家に帰れば家庭内別居状態、の生活の方が10倍、いや100倍以上ストレスがあったと思います。
とは言え、もちろん不安がないわけではありません。特に私は、イギリスでは外国人で、家族はもちろん親戚も近くにはいません。
「私が病気になったら、誰が子供の面倒をみるの?」
「子供が病気になったら会社を休まなくては」
「日本に帰ってしまいたいけれど、ハーグ条約があるから帰れない」
「日本よりもイギリスの方が、障害児サポートは充実している」
「娘は発達障害なのか?学習障害なのか?個性なのか?」
「離婚後は、そもそも私はイギリスに住む権利はあるのか?」
など、様々な思いや問題がいつも、今でも頭の中を駆け巡っています。そんな中で、真に深刻な事態がじわじわと私に迫っていることを、娘の成長と共に知ることになります。
娘は6歳、小学2年生になり、私もシングルマザーの生活にだいぶ慣れてきました。そんなある日、娘の算数の宿題をサポートしている時にあることに気づきました。
「この子、日本語で説明しても、英語で説明してもわかっていない??」
算数の文章問題で、「公園に犬が3匹と猫が8匹います。どちらが何匹多いですか?」というような問題だったと思います。他には、図形で大きいのは何色?今3時で10分後は何時何分?など、「大きい・小さい」「後・前」「多い・少ない」などの言葉の意味がわかっていないようでした。その時は同じような問題を何問か一緒に解いて慣れさせましたが、2~3日してからもう一度同じ問題を見せると、まるで初めて聞いた問題のように、忘れてしまっています。焦った私は、すぐに担任の先生に会うことにします。当日学校に出向くと、そこには担任と共に、なぜか療育コーディネーター(イギリスでは各学校に必ず1人います)の先生がいました。そこで私は、衝撃の言葉を耳にします。
「私達も、どうも様子がおかしいと思っていたところなんです。」
「小児専門の精神科医とスピーチセラピストの予約を取りましょう。」
体から血の気が一瞬引くのを感じ、保育園で苦情を言われた時のことが頭をかすめましたが、「学校は私達親子を助けようとしている」と思い直し、予約の手配を学校にお願いすることにしました。イギリスでは、学校が子供を病院へ紹介すると、より重大かつ緊急性をもった案件として捉えられます。これは、親だけでなく学校が絡むことで、子供の学業・学校生活への懸念を示しているからです。
この時点で私は、精神科医に娘を見せることの意味が、まだよくわかっていませんでしたが、これがこの長い道のりの始まりだったのだ、と後に気付くと共に、勇気を持って私に事実を告げてくれた学校の先生達に感謝することになります。結果的には、この時から4年後、娘が10歳の時に、日本でいう障害者認定がされ、更に様々なサポートの恩恵にあずかることになります。
この頃になると、私にとってのパートタイム勤務は良い意味で「息抜き」的な存在になっていました。もちろん業務自体は真剣に対応しますが、ちょっとした同僚とのおしゃべりや、家にいる時とは全く違った環境に身を置くことで、子供の事ばかり考え過ぎずにすむ、という意味です。車通勤だったので、車内ではユーミン、中島みゆき、RCサクセションなど(世代が・・)、好きな音楽を歌いまくって発散もしていました。
そして、なにより大事なのは、私の状況を理解してくれた友達やママ友、会社の同僚、学校の先生方やチャイルドマインダーとそのお友達のおばさま方、娘の習い事の先生達などなど・・、私達親子の近くにいてくれた人々です。別居した当初は、これからたった一人でどうすれば・・!という思いが駆け巡りましたが、すぐに、私達を助けてくれる存在が沢山いること、そして微力だけれど、私達もその大切な人々を助けられることを学びました。Bill WithersのLean on Me(僕を頼って)という曲があるのですが、「くじけそうな時は、頼ってくれ」という歌詞を聞いて、車の中で独り号泣してしまったのを、つい先日のように思い出します。
もちろん、当時の私の状況を察知して、潮が引くように離れていった人たちも沢山います。でも、逆にその程度の付き合いだったのだ、と分かることができてよかった、と思うようになりました。私は、元々あまり人付き合いが上手ではなかったのですが、今は信頼できる人々に囲まれて、平穏に過ごしています。
当時を思い出しながら書いてみましたが、こんな高齢のシングルマザーでも、海外でどうにかやっています。そして、まだまだ終わることなき不安感はありますが、ひょうひょうと、前向きでいたいと思います。